06
Sep. 2021
私にとって働くとは?
【私にとって働くとは?】
私にとって働くとは[朗動]である。
ほねを折って嫌々するものではなく、やりたいことをやる、もしくはやりたいことのために取り組むものであり、それは心朗らかになるものだと思っている。
私の性別は女性。母子手帳にも出生届にも私は女性であるということが記されていて、なんら不思議に思ったことはないし、女性だから宝塚歌劇団という夢の世界の住人して舞台に立つことができた。退団して結婚、男の子二人の母だが、タカラジェンヌという職業に就いて以降、働きたくなかった時期はない。連日舞台の稽古に明け暮れ、へとへとになって帰るときの心地よさや充実感はいつも『私は生きている』ということを教えてくれた。それは情熱を注げるものに出会えた幸せ者ならではの感覚かもしれないが、生きると実感することが好きなのだから仕方がない。
実は、長男出産のときもギリギリまで仕事して、さすがに予定日が過ぎて促進剤を打つとなってから休んだ。当時は地域の売店の事務販売をしていて、地域のみんなは私のお腹が膨らんでいくのをそれはそれは微笑ましく見守ってくれていたものだ。夫は「そんな無理して働かなくても…」といつも言っていたが、当の本人が働きたいのだからこれまた仕方がない。
ではなぜ働くのか…。
時は30うん年前に遡る。私の母は22歳のときに長女である私を出産し、その3年後に妹を出産した。父と母は職場結婚で、9歳年下の若く気の強い母は、町から村に嫁いできた稀に見るべっぴんさんだったそうだ。そのべっぴんさんは今でこそ身も心も丸くなり、孫を溺愛するおばあちゃんになっているが、私の記憶の中にある母の口癖は「男に食わせてもらうなんて」と異常なまでの自立心の強い人だった。
まだ女性が家庭を守るのが当たり前の時代。しかも昭和初期の文化の残る保守的な農家に嫁いだのだから、さあ大変。桃太郎の昭和版、男は畑へ草刈りに、女は家で洗濯を。
それが常識の環境で【働き続ける】選択を母はとった。
父が寛大で、女性が活躍できる社会に理解を示す人だったのも良かったのかもしれない。おかげで父は大変なマメ男くんになった。家事・育児・洗濯、何事においても大活躍するイクメンの登場だ。
余談だが、父のような男性を理想とする我が妹は、見事に婚期を逃している。
話しを戻そう。
さて、働く母は格好よかった。
朝から化粧し髪のセットに細身の腕時計をジャラリとつけて、ピアスにマニキュア、丈の短いスカートにハイヒール…。そんな出で立ちで幼い私たち姉妹を車に乗せて、会社近くの保育園まで毎朝片道40分の山道を往復してくれていた。その当時、働きに出ている女性は近所でも母ともう一人ぐらいで、言ってしまえば角が立つかもしれないが、周りと比較したときの垢抜け方が違っていた。
参観日になれば夫婦仲良く見に来てくれた。気は強いが人見知りの母と高身長でフレンドリーな父との組み合わせが実に理想の夫婦のような気がして、いつも鼻高々だった。よく後ろを振り返って母のべっぴんさん具合を「よしよし」とニヤニヤしていたのを思い出す。
いくら隠しても隠し切れない、正真正銘自慢の母だったのだ。
かくして私はきっと母のような女性になりたいのだろうと思う。
働くということを通して生きている証を感じ、自立している母親像、女性に生まれたからこそ立ちはだかる高い壁を け破る強さを持っていたい。とはいえ、時代の変化とともに女性ならではのお得なことも増えているので、そこは大いに感謝しなければならない。ただ、母は働くこと自体が好きだったわけじゃない。いつも眉間にシワを寄せて大きなため息ばかりついていたと記憶している。
つまり、心朗らかには働いていなかったのだ。
満足度や働くことによる幸福度は私の方が勝っていると思えるのは、そういう働き方をすると自ら定め実行しているからであり、これが私の「在り方」である。「朗動」とは「在り方」の表れ。働くということにハードルを感じているすべての人に[朗動]について問いたい。あなたは結局どう在りたいのか?
かつての母がそうだったように、私の今一番の目標は、息子たちに背中を見せ続けることだ。いつか息子たちの口から「うちの母ちゃんカッコイイんだぜ」なんて言葉をもらえた日には、口元を緩めながら背筋を伸ばすことだろう。
ダリア農家の後継者として株式会社ダリアジェンヌ 代表取締役を務め、地元宝塚市のナビゲーターとして
市のイベントPRをされるなどご活躍。
農村地ダリアの里に生まれ、17歳のときに宝塚音楽学校に合格。19歳で初舞台を踏む。
退団後は上京し介護福祉士として現場に勤務。
結婚を機に帰郷し故郷の過疎化にショックを受けたことで、地域特産のダリアの花や球根を活用した宝塚ブランドを立ち上げる。
現在 2人の男児の母親として、子育てを行いながら仕事を両立させている。
【専門家コラム】